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人種国籍を超えた野茂秀雄投手

200756

宇佐美 保

 

 野茂英雄投手の興味深い逸話が、新潮社発行の『危険な脳はこうして作られる:吉成真由美著』に、次のように紹介されていました。

 

彼がまだボストン・レッドソックスに在籍し、二度目のノーヒットノーランの記録を打ち立てたばかりの、初夏の夕食会。

時刻少し前に、一人でワゴン車を運転し、すくつと降り立った丈高の雄姿は、それだけでも飾らない自然の剛さと静かさを漂わせ、印象的であった。

この晩は野茂氏の他に、指揮者の小沢征爾氏、科学者の利根川進氏も出席。小沢氏は、ボストンの野球場(フェンウェイパーク)通いつめた揚げ句、名誉あるゴールドバスカード(全国の野球場ヘフリーパス)授与される程のハードコア野球フアンであるし、利根川氏も、

「自分が気〃を送ってやらないと、レッドソックスが負けてしまう。」

と、本気で思い込む程にバリバリのファンという訳で、この晩は野茂氏にお会いすべく、二人共かなりの無理を押して、めったに出ないソーシャルディナーに駆けつけている。

 宴もたけなわ、傍らの小沢氏がやおら、

「ところで『パール・ハーバー』という映画、ご覧になりましたか。」

 と切り出された。この年の超大作アメリカ映画である。

「見ましたよ。」

「見ました、見ました。」

 と、数人が声をあげる。

あれはネ、ちょっと問題なんじゃないか。日本側が、随分理不尽に描かれてるんですよね。

そうなんですよ。しかも日本版は四カ所もカットして、日本人を刺激しないようにしてるんだそうです。」

 と、総領事

「あのまま放っといていいんですかね。やっぱり日本政府が、正式に抗議すべきなんじゃないか。」

 アメリカというところは、何事においても、

「フェアーであるかどうか」

 というのが判断の基準となる。フェアーでないことがあれば、フェアーでない点を明確にして、キチンと議論し、対処すべきなのである。でなければ、何事も起こらないし、改善されない。アメリカで生活している面々は、小沢氏の発言に、けだしもっともだと領く。

 と、それまで黙々と天ぷらを食していた野茂氏が、おもむろに

「一体何が問題なんですか。」

 と、ボソリ一言。

あれは単に映画でしょ。エンターテインメントでしょ。誰もあれが事実だなんて思ってないですよ。」

 と、すかさず小沢氏、

「あなたはまだ若いから、あまり日本国に対して強い思い入れが無いかも知れないけどね……。」

 受けて野茂氏、

僕の仲間も見に行きましたけど、誰もあれを見て、日本人は悪い奴だなんていう感想を持ってなかったですよ。みんなエンターテインメントとして楽しんだだけです。」

 そこで利根川氏が、自分はその映画自体は見ていないのだけれど、いくつかの新聞記事を読んだので、と前置きして、

まあ、大人はまだそれでもいいかも知れないけれど、何の知識も無い子供達が見て、日本人を誤解するっていうのは、やっぱり問題なんじゃないか。」

「そうだよねエ。」

 と小沢氏も深く頷く。

 と、一呼吸あって野茂氏、

「その為に親がいるんじゃないですか。」

「エ……?」

子供が映画を見て誤解するような事があれば、それを直してやるのが親の役目じゃないですか。

「……。」

「あの映画を見て、皆が皆日本人が悪いと思うかどうかわかんないですよ。人によっては、ゼロ戦が格好イイと憧れるかも知れないし……。」

「……。」

「それに、日本人全員がいい人とは限らない。いい奴もいればいやな奴もいる訳です。アメリカ人だって同じです。」

 要するに、「日本人が誤解されているから抗議すべき」と十把一からげに言っても、現実にはイイ人もそうでない人もいるのだから、果たして全体を盲目的にかばう事にどれ程の意義があるのか、という訳である。しかも、人命にかかわるような政治問題ならまだしも、エンターテインメントじゃないかと──。

「……ウーン。」

 と、全員唸る。

「何か、この──、目からウロコっていう感じだね。」

 と小沢氏。もともと野茂氏の大ファンだという前提があるにせよ、全員深く感じ入ったことには違いない。

 

 皆、野茂氏が、

「何が基本的に重要であるか」

 ということを明確に把握している点に、感心したのであった。特にこの三人共、自らの実力だけを頼りに、異郷の地で戦い生き残ってきているので、大勢が何と言おうと、

「何が最も重要な事であるか、何にプライオリティーがあるのか」

 というのを、常に見極めるべく迫られている。これは容易な事ではない。特に気配りの良くできる人には、この「本質を見極める」ということが出来にくい。気配りにエネルギーを使っているうちに、本質を見失ってしまうからである。

 更に敢えて言えば、男型の脳の方が、「本質を見極める」事に長けている。最も重要な事柄だけを残して、他を切り捨てる事ができる。まあ、細かいところに気がつかないという見方もできるが──。細部に良く気がつき、相手の心を忖度して、上手く気配りできる女型の脳もしくは秀才型の脳は、往々にして、プライオリティーがどこにあるかを見失いがちになる

 

 ここでの記述の最後の部分(野茂氏が、「何が基本的に重要であるか」ということを明確に把握している点に、感心したのであった。)は、吉成氏の大きな勘違いと感じましたので、吉成氏の記述を一旦中断させて頂きます。

 

1947415日、ジャッキー・ロビンソンが黒人初のメジャーリーガーとして、デビューしたのを記念しての423日放映の大リーグインサイドレポート(NHK衛星第1放送)に於いて、メジャーリーグベースボール(MLB)副理事のジミー・ソロモン氏は次のように語っておりました。

 

野球は、公民権運動の先駆けでした、軍隊よりも早く、公立学校よりも早く、いわば人種的な和解の壮大な実験を実施したのです。

白人と同じレストランで食事をし、同じトイレを使う、そうした事はすべてMLBから始まりました。”

 

 そして、多くの黒人メジャーリーガーたちは、そして井口選手も“今の自分はジャッキー・ロビンソンのお陰”とロビンソンへの感謝の言葉を発していました。

 

 なにしろ、フリー百科事典『ウィキペディア』の一部を抜粋しますと、次のようです。

 

白人たちからの反発は激しくロビンソンと(ロビンソンが所属するドジャーズの会長)リッキーの家には連日脅迫の手紙が届き、観客からの野次はすさまじく、チームメイトのなかにはロビンソンとプレイするのを嫌がって移籍した者もいた。

 

しかしロビンソンは逆境にめげず、常に紳士的に振る舞い、どのような酷いことをされても決して報復をしなかった。・・・また野球だけではなく、ロビンソンの活躍が人種差別へ与えた影響も非常に大きい。

 

 

 ですから、

野茂投手の活躍の場では、
ジャッキー・ロビンソン選手らの苦闘のお陰で、
人種も国籍の壁は全て取り外されているのです。

そして、

人種も国籍も異なる選手達が力を合わせる事で、
チームの勝利を獲得する世界なのです。

野茂投手一人が幾ら好投してもダメなのです。

大リーグで、野茂投手は、2度も「ノーヒットノーラン」を達成していますが、この偉業とて、味方の野手がエラーして得点されてしまえばおしまいです。

それに、誰も打てずにゼロ点では勝てませんから、「ノーヒットノーラン」はいつまでたっても達成されないでしょう。

 

 従って、野茂投手は“僕の仲間も見に行きましたけど、誰もあれを見て、日本人は悪い奴だなんていう感想を持ってなかったですよ。みんなエンターテインメントとして楽しんだだけです。”と発言するのです。

更には、補足するなら、

野茂投手の仲間は、
皆、人種国籍を超越している存在ですからこそ、
「映画も野球もエンターテイメント!」なのではありませんか!?
(登場人物、選手たちの人種国籍を彼らは問題にしないのでしょう。)

 ですから、ワールドベースボールクラシック(WBC)に於いて「日の丸を背負って戦い優勝した」(又、現在、彼が所属しているマリナーズではなく、日本チームの仲間と大リーグを戦いたいとも語り)と、はしゃいでいた大リーガーのイチロー選手が私は不思議でならないのです。

 

 野球はエンターテイメントです。

WBCは、野球をサッカー同様に世界のスポーツとして発展させる(金を世界から稼ぐ)為に、大リーグ機構が企てたのであって、国と国が争う場、国威発揚の場ではないのです。

 

 そして、かつてジャッキー・ロビンソンの活躍によって「米国内での、人種的な和解の壮大な実験」が成功したように、野茂投手に続く松井秀喜選手ら日本選手の活躍、勿論、王建民、A.ロッド、オルティスなどなどの活躍で、「世界的な、人種的な和解の壮大な実験」が成功することを願わずにはいられないのです。

 

 一方、「音楽には国境はない」と言われていますが、指揮者小沢征爾氏の前には、厄介な壁が立ちはだかっています。

 

 この件に関しては、『ウィーン・フィル音と響きの秘密(中野雄著:文春新書)』から抜粋させて頂きます。

 

 先ずは、小沢氏が2002年から音楽監督を務めているウィーン国立歌劇場に関して、

 

歌劇場のランク付けを話題にするとき、
音楽関係者のほぼ全員がウィーン国立とミラノ・スカラ座を双壁に挙げる。・・・

 

 そして、

 

小澤征爾ほど、「自分は日本人である。西欧クラシック音楽の世界における異邦人である」という言葉を、頻繁に口にする音楽家も珍しい。

西欧クラシック音楽は、一見とっつきやすそうでいて、真髄を究めようと近寄れば近寄るほどその奥は深く、頂もまた無限に近い高さをもつ芸術である。

・・・

 小澤の録音記録を読んで気がつくことのひとつに、彼がベルリン、ウィーンとは言わず、手兵であったボストン交響楽団ともウィーン古典派=特にベートーヴェン、ブラームスの《交響曲全集》のCD録音をしていないことが挙げられる(サイトウ・キネン・オーケストラとは、全曲録音の企画が進行しているようであるが)。

小澤が満を持した構えでいるのか、欧州のメジャー・レーベルが小澤のウィーン・古典派解釈を認めていないのか──。将来、この指揮者にクリアーすべき課題があるとするなら、そのひとつがウィーン・フィルかベルリン・フィルを協演相手としたベートーヴェン、ブラームスの《交響曲全集》の完成、そして活動の地ヨーロッパにおける評価の獲得であろう。

小澤征爾のウィーン国立歌劇場音楽監督就任(二〇〇二年九月)とほぼ時期を同じくして、英国生まれの俊才サイモン・ラトルとウィーン・フィルによるベートーヴェン《交響曲全集》が発売されることになった。ラトルはベルリン・フィルの次期音楽監督に内定している人である。

「この企画は楽団側からもたらされたもので、私は『私でいいのか?』と訊き返した」とラトルは告白している。「小澤には、まだ乗り越えなければならない山坂がある」と言ったら、言い過ぎになるだろうか。

 


このように、小沢氏といえども、日本人の殻から完全に脱却し他国の人達の輪に完全には入り込む事が出来ないでいるのです。

 

 更に、利根川氏は、科学の世界にも国境はないとはいえ、日頃の研究活動に於いて、何らかの国籍人種の相違による差別(?)を感じておられるのでしょう。

 

 次には、吉成氏の“上手く気配りできる女型の脳もしくは秀才型の脳は、往々にして、プライオリティーがどこにあるかを見失いがちになる。”との見解に異議を唱えたいので、更に、この件に関して吉成氏の記述を引用させて頂きます。

 

 今度は私が尋ねる。

「野球選手の生活というのは、毎日気を抜くなんていう事が出来ないから大変ですね。一日一日の結果が物を言うし、観客何万人の期待というものを一身に背負う訳で、凄いストレスだと思うんですが、今日はやりたくないという日もあるのですか。」

一年前に如何なる記録を打ち立てようが、今日その日の出来が悪ければ、直ちに奈落行き。過去の栄光の積み重ねが、今日の仕事のミスをカバーするという事が全く無い。

 答えて曰く、

「ないです。」

 と、キッパリ。

「僕らは、野球が好きでやりたくて仕方ないから野球選手になったのであって、みんな、できるものなら毎日でもプレーしたいんです。」

 何ということだ。ホームグラウンドであれば何万人もの歓声が、他グラウンドであれば何万人ものブーイングが、一球毎に投手を襲うものであるのに、一日、あるいは一瞬たりとも嫌になる事が無いとは──。しかも歓声もブーイングも、大きければ大きい程自らの存在感の強さを反映している訳で、かえって実に気持ちがいいという。これだけ好きなら、ストレスになどなる訳がない。

 大勢に流されない態度というものは、自らの精神的安定が、観客の大歓声に一瞬たりとも左右されないという、日々の訓練によって培われたものなのであろう。

 続けて問う。

「やっぱりアメリカの方がやり易いですか。」

「日本でもアメリカでも生活の苦労は同じです。ただ野球のことだけで言えば、アメリカは、成績さえ良ければ自分の主張が何でもすんなり通るから、明快でいいです。」

 これには一同大きく頷く。

 プライオリティーのハッキリした人間というのは、生き方が爽快である

 

 吉成氏は、野茂投手の「成績さえ良ければ自分の主張が何でもすんなり通るから、明快でいいです」をそのまま受け取ればよいのに、「プライオリティー」などと言葉の遊びをされていて、ご自分だけが悦に入っておられるようです。

ですから、野茂投手の発言を次の記述につなげてしまうのです。

 

 

気配り秀才

 マサチューセッツ工科大学(MIT)の若い教授が嘆息まじりに言った。

どうしてオールAの学生は、後で伸び悩むのかネ。」

 この教授は気鋭の脳科学者で、とにかく彼の許で研究をしたいという優秀な若手研究者が、毎年何人も応募してくる。当然ながら彼は、各応募者の履歴書を吟味し、面接も十全に行なって、

最も印象の優れた人材を選択する。例えば、

「大学はスタンフォード、大学院はイエールで、いずれも苦もなくオールA。脳科学分野の知識も深く、最近の目ぼしい論文についても知悉している。面接も誠にスマートで、これ以上の逸材はめったにいるものじゃない。」

 と、彼をして瞳目せしめる程の人物を。

 ところがそういう人物に限って、ポストドクターとして、その先伸び悩んでしまうという。

「以前は、自分の指導が悪いんじゃないかと思っていたけれど、どうもそうではないらしい。すんなりとオールAがとれるような秀才というのは、優れた科学者になるには何かが欠けているんじゃないか。」

 つまるところ、オールAがとれるという事は、気配りが良くできるかわりに、他を切り捨てて一つの事に深くこだわる能力、則ち、プライオリティーをハッキリさせる能力というものが欠如している事を証明しているのではないか

加えて、人間というのは、自分の能力を超えた人物、自分とは波長の合わない人物を、十分に評価する事は出来ない。オールAがとれるというのは、とりも直さずその学生の才能が、評価する側の能力の範囲内に収まっている事を表わしているに過ぎないという訳だ。

 別の脳科学者も声を合わせて、

「僕は絶対にオールAの学生は採らないことにしている。優れた科学者になるような人は、どこか奇妙な特質というものを持っている。オールAなんていうのは、凡庸さを表す代名詞のようなものだ。」

と──

確かに科学であれ、芸術であれ、スポーツであれ、何かを極めるような人というのは、学校や企業といった組織には収まりきらない。近代日本に於てこの類の人々は、ごく一部を除き、不当に低く評価されてきた

 しかし、かといって、オールAの秀才達を貶めるつもりもない。医者や技術者、会計士、弁護士、官僚、皇室、司書、教師、牧師等のように、間違いをなるべく少なく押さえ、僅かの改変を加えながら、過去を保存し伝承して行くような立場や職業には、過剰なクリエイティビティーというものはかえって邪魔になる。

 こういう仕事をする人達は、オールA型の気配り上手な、突出しないけれど、安定した耐性と信頼性の高い人物が望ましい。このような能力は、IQ値、偏差値などの数値に表われ易いので、長い間「知能」そのものと誤認され、不当に高く評価されてきたきらいがある。こういう才能は、当然ながら保守的な人間を形成する。

 

 吉成氏は、「野球の世界での成績」と、「いわゆる一般社会での成績」の区別がはっきりされていないので、野茂投手を「プライオリティーのハッキリした人間」と評価してしまったり、「オールAがとれるという事は、気配りが良くできるかわりに他を切り捨てて一つの事に深くこだわる能力、則ち、プライオリティーをハッキリさせる能力というものが欠如している事を証明しているのではないか」などとの愚論を開陳しておられます。

 

 

「野球の世界での成績」は、
全て単純な数字で評価され、
従来の数字では評価が不十分な場合には新たな数字的評価も導入されています。

そして、その数字的評価には、殆ど大きな欠陥はありません。

ですから、打率、ホームラン数、打点の各部門でトップを征する三冠王は立派の打者です。

加えて、イチロー選手は、「走攻守」オールウルトラAです

(彼の外野からホームへ向けての送球が数字的に評価されていないといっても、その送球を一目見れば誰もが驚嘆します。)

その上、投手もやりたいと彼は言っているようです。

やればこの分野でも、ウルトラAを獲得するかもしれません。

(この件は、後述させていただきます。)

 

 

学業に於ける成績も数字で表されるといっても、その評価する内容が問題です。

学校で「愛国心」を生徒に教え、それに関して、生徒にテストして数字で評価して、生徒の成績としたら、生徒の能力は正当に評価されますか?

(私などは、「愛国心よりも人類愛が優先されるべき」と答えて、ゼロ点を与えられるでしょう。)

学業に於ける成績などは、全てこのような類と存じます。

 

 それに

学業の成績は、殆どは知識の評価に準じています。

大リーグのテレビ中継の解説では、野球選手でなかった(?)大リーグ評論家の福島良一氏や、アキ猪瀬氏の大リーグに関するありとあらゆる面での知識の豊富さに驚嘆します。

 

 ですから、

大リーガーの成績も学業同様に大リーグに関する知識で評価すれば、
福島良一氏、アキ猪瀬氏のお二人が「オールA」をとり、
野茂投手、松井秀喜選手、イチロー選手らは落第生となるかもしれません。

 

 こんな事を、吉成氏は無視されるから「オールAがとれるという事は、気配りが良くできるかわりに他を切り捨てて一つの事に深くこだわる能力、則ち、プライオリティーをハッキリさせる能力というものが欠如している事を証明しているのではないか」などとの愚論を開陳しているのです。

 

 野茂投手、松井秀喜選手、イチロー選手らが大リーガーとして優秀なのは「プライオリティーをハッキリさせる能力」が優れているからではありません。

先にも書きましたように、イチロー選手は、「走攻守」オールウルトラAです

 

 吉成氏は「気配り」を、単に「失敗のないように振舞う事(教科書通りに振舞う事、八方美人的に振舞う事)」と誤解されているのではないでしょうか?

 

 

気配り」とは、「八方美人的に振舞う事」ではなく、「心配り」であり「心遣い」であるべきと存じます。

 

 ここで、ヤンキースのトーリ監督から、打撃だけではなく守備走塁等に至るまで、全幅の信頼を勝ち得ている松井秀喜選手の著作『不動心(新潮新書)』の一部を引用させて頂きます。

 

 個人よりチームの勝利を

ある選手が「4打数ノーヒットでもチームが勝てばいいとは思わない。僕だったら4打数ノーヒットでチームが勝つより、極端な話、チームが負けても4打数4安打の方が嬉しい。僕らはプロ。結果が出なければクビですから」と言ったそうです。

言いたいことは分かりますし、そりゃ、打てないよりも打てた方が嬉しいに決まっています。しかし、野球は個人競技ではありません。チームスポーツです。個人個人が力を発揮すべきなのは当然ですが、チームスポーツである以上、最終的な目標はチームの勝利ではないでしょうか。

 

 僕なら、4打数ノーヒットでもチームが勝つ方を選びますし、4安打してもチームが負ければ悔しい。もちろん、チームの勝利を目指したから無安打でよいとは考えません。

チームの勝利を、打てなかった言い訳にはしない。

 僕は、チームの勝利のために自分ができることは何かを常に優先して考えます。チームの一員としての最終目標は、あくまでも勝つこと。それは強いチームの選手だろうと、負けが込んでいるチームの選手だろうと、一緒でしょう。

僕がなかなか勝てないチームにいたとしても、この考え方は変わらないと思います。

チームの負けが込み、仮に優勝争いの圏外にいても、本塁打ばかりを狙うようなことはしません。実際問題として、本塁打を狙えば打てる確率が高く、それがチームが勝つための最善の策なら狙いますが、そうでない限りは、チームの勝利に最も貢献する確率の高い打撃を心掛けます

例えば、ここは最低でも外野フライを打とうと考えて打席に入り、たまたま高めの甘い球がきて本塁打になった場合でも、自分のスタンスは、あくまで外野フライを打つことなのです。

 

 このように、野球の世界では、全てが数字で評価されるといっても、超一流選手にとって大切なのは、「気配り」、「心配り」であり「心遣い」なのだと存じます。

なにしろ、投手である野茂氏にしても、相手バッターの心理状況を読んだりと「気配り」、「心配り」「心遣い」が大事なのは言うまでもありません。

 (この記述の冒頭の「ある選手」は、「イチロー選手」では?と勘ぐっている下種の私は、イチロー選手が「松井選手同様に、自分の活躍よりもチームの勝利を優先する城島捕手」のマリナーズへの加入、WBCでの優勝の喜びを味わった事を契機に超一流選手への道を歩む事を期待せずに入られません。

その時には、投手としても超一流となるのではないでしょうか?)

 

 又、一般社会における

心配り」、「心遣い」とは、相手の心の内を読み、
相手に良かれと思う行動をするのですから難しい事この上もありません。

どんなに「相手の心の内」を読んでも読みきれるものではありません。

それに「相手に良かれと思う行動」をとったつもりでも、相手には迷惑である場合すらあります。

 

 人間の心は、一人一人微妙に異なります。

一人一人の心に於いても、日によって異なったりします。

気配り」(「心配り」「心遣い」)は、なんと言っても難事です。

 

ところが、自然(科学)の世界ではそのようなことはありません。

私が現在研究中の電気の世界(拙文《『コロンブスの電磁気学』の概略》をご参照下さい)では、“なんて電気は生一本な性格をしているのだろう!”と日々感嘆しています。

(自分の科学的推論を裏付ける為、実験し、推論と異なる結果が出てきた場合。推論通りの結果が欲しいと思って同じ実験を何回も何回も繰り返しても同じ結果が出てきます。)

 

 この「生一本な性格の電気の心」を読むのは(不遜ではありますが)、人間の心を読むより百倍も容易です。

(その上、「他人の心」を読むのは時間との勝負とも言えますが、「電気の心」を読むには時間にこだわる必要はありません。)

そこで、こんな時には電気はどのように振舞うのかしらと(自分が電気になったつもりで)日夜、思いつつ研究するのです。

 

 ですから、「気配り」、「心配り」「心遣い」に優れた方は、電気の研究では、私の百倍の業績を上げられると確信しています。

 

 この為に、(周囲の方々には、申し訳ない話ではありますが)、私は、日頃、「気配り」、「心配り」「心遣い」に心を砕き、自らの頭脳の鍛錬に勤しんでいるのです。

 

 

 

 

(補足:映画の力)

 

 野茂投手と共に会食された方々は、野投手以外は、超大作アメリカ映画『パール・ハーバー』をエンターテイメントとして捉える事はできなかったのです。

ここに「映画の力」の恐ろしさが隠されているのです。

 

 第二次世界大戦中の194466日に行われたノルマンディー上陸作戦の映画『史上最大の作戦』を、私は史実として捉えて感激したりしていました。

単なる「エンターテイメント」としては観ていませんでした。

大勢の兵士達が血を流して死んでゆく様子を大画面で見てエンターテイメントとして楽しむのは辛い事です。

(多くの方々も同様ではありませんか?

軍国少年の血を湧かせ肉を踊らせるに十分の映画です。)

 

 ところが、1年ほど前(?)、ケーブルテレビ(ナショナルジオグラフィックチャンネル)で、ノルマンディー上陸作戦の過程を、兵士として参加された方々を交えて、紹介していました。

そして、映画との相違に愕然としました。

 

 先ずは、「ノルマンディー上陸作戦」に関して、フリー百科事典『ウィキペディア』の一部を引用させて頂きます。

 

連合軍は上陸に備えて特殊装備を開発した。パーシー・ホーバート少将指揮下のイギリス第79機甲師団による特殊車両は「ホバーズ・ファニーズ」「ザ・ズー」と呼ばれた。同師団が開発、装備した車両群は、水陸両用のD.D.(Duprex Drive)シャーマン、地雷除去戦車シャーマン・クラブ、工兵戦車チャーチルAVRE(Armoured Vehicle Royal Engineers)、火炎放射戦車チャーチル・クロコダイル、架橋戦車チャーチルARK(Armoured Ramp Carrier)などである。

・・・

オマハ・ビーチにおいては米第1歩兵師団が最悪の苦難を経験した。ここでは他の海岸に比べ特殊装甲車両の装備が少なく、さらにオマハに割り当てられた水陸両用シャーマンの多くは予想より高かった波のせいで次々と浸水し、海岸に到着する前にほとんどが失われてしまった。・・・

 

 ここに記述されている「特殊車両」に関しては映画では紹介されていなかったと記憶しています。

そして、テレビでは、この「特殊車両」(特殊戦車)の素晴らしさを紹介していましたし、この件に関しては『ウィキペディア』の記述と異なり、もっと辛辣でした。

 

 兵士として参加された方は、

“艦隊の司令官が臆病だった為、
(ドイツ軍の砲撃を恐れて)艦隊を浜の近くまで近づけずに、
沖合いで、戦車を上陸艇に下ろしたため、
29(?)台の戦車のうち1台を残して全て海底に沈んでしまった。”

と憤慨しておられました。

(特殊戦車が無事に浜に上陸で来ていたら、上陸作戦は他のビーチ同様に進行していたでしょう。)

 

 こんな臆病な司令官を映画で描いてしまっては、軍国少年の血は冷め切ってしまうでしょう。

国威発揚効果は激減です。

 

 この種の映画(9.11事件に絡む映画も含めて)は、単なるエンターテイメントとして、片付けるべきとは思いません。

 

 国籍人種を超越されている野茂投手達だからこそエンターテイメントとして鑑賞出来るのです。

ですから、私も、早く野茂投手達の境地にたどり着きたいと努力しているのです。

 

 

(補足:親の責任)

 

野茂投手は、「子供が映画を見て誤解するような事があれば、それを直してやるのが親の役目じゃないですか。」と発言されていますが、前述のように、映画を見て、親自身が誤解してしまうのです。

 

 なにしろ、

親達は日頃、
くだらないテレビ番組を子供と一緒に一喜一憂しているのですから!

子供に適切なアドバイスができるでしょうか?!

 

 20044月に3名の日本民間人がイラクで人質として捕らえられた際、一人の大学生が次のように話していました。

 

“親父がビールを飲みながら、テレビに向かって、あんな勝手な振る舞いをする奴らを、俺達の税金を使って助ける事はないんだ。「自己責任だ!」、「自己責任だ!」と言っていたよ、俺も親父の言う通りだと思う。”と。

 

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